UpDate 2000.04.07
NHKテレビ 「ロシア語会話」 
ロシア民謡-秘宝の玉手箱
誤解されている「ロシア民謡」 1999.6〜7月号
中山英雄
前号でロシア民謡と日本人のかかわり合いについて、戦前から1950年頃までの歴史を概観した。私たち日本人はロシア艮謡を含むロシア音楽やソビエト音楽から、実に多くのものを学び、取り入れ、私たち自身の音楽生活の栄養源にしてきた。その中でたくさんの人びとが、紹介役、パイプ役としての仕事に情熱とエネルギーを注いできた。さまざまな分野の、日露の音楽家、文筆家、語学関係者は言うに及ばず、合唱団や音楽関連企業。ロシア料理店、シベリア抑留体験者、それに国際友好団体などの人々である。私たちは美昧しい御馳走をいっぱいいただいたが、時には気づかぬうちに消化不良を起こし、お腹をこわすことがあったかも知れない。国際文化交流には・多少の誤解や過ちは致し方ないのだろうか。それにしても…。    
 
●ロシア民謡ではない「ロシア民謡」
 市販されている楽譜やCD、あるいはテレビ・ラジオの放送で「ロシア民謡(集)」と銘打ったものの中に、驚くほどたくさんのロシア民謡ではないものが含まれている。ちょうど、大きな水の固まりが小さな水滴を引き寄せていくように、ロシア民謡がそれら「否ロシア民謡」を吸収していく現象は、それ自体がロシア民謡の優位性、偉大さの証明なのかも知れない。では、具体例を示そう。
 
 @ロシア歌謡(ロシア古謡)
「赤いサラファン」(ツィガーノフ詞・ヴァルラーモフ曲)
「夜うぐいす」(デーリヴィグ詞・アリャービエフ曲)
「トロイカは運ぶ」(ヴャーゼムスキー詞・ブラーホフ曲)
 いずれも19世紀前半におけるロシアの大ヒットソングである。ロシアの音楽学者アサーフィエフはこの時代を「歌が社会のあらゆる場所を支配している」時代と表現している。歌い広められていくうちに「民謡化」したのだろう。

 これらの曲を「ロシア民謡」と呼ぷのは、滝廉太郎の「荒城の月」や、山田耕筰の「赤とんぼ」を日本民謡というのと同じで、正しくはないのだ。
 貴族の夜会での即興的な演奏から生まれた、独特の「ロシア・ロマンス」といわれるジャンルの曲(「君知りて」「私を責めないで」等)やロシア・ジプシー民謡(「黒い瞳」「2つのギター」等)も、厳密にはロシア民謡と区別したいものだ。ジプシーの民族名の正しい呼称は「ロマ」である。


 Aソビエト歌曲(ソ連歌曲)

「カチューシャ」(イサコフスキー詞・プランテル曲)
「道」(オシャーニン詞・ノヴィコフ曲)
「モスクワ郊外の夕べ」(マトゥソフスキー詞・ソロヴィヨフ=セドイ曲)

訳詞の力は絶大で、まるで日本人自身の歌のように愛唱されてきた。
これらを「ロシア民謡」と呼べるなら、「だんご3兄弟」を日本民謡といってもおかしくはないだろう。これらの歌は、ざっと100はあるだろうか。
「道」は1945年の作品だが、日本のある有名劇団が、帝政ロシアを舞台としたミュージカルの劇中音楽に使っていたのを観たことがある。

旧ソ連の、ロシアを除く、14の共和国の歌
「広きドニエプルの嵐」(ウクライナ民謡・シェフチェンコ詞)
「スリコ」(グルジア民謡、A・ツェレテーリ詞・V・ツェレテーリ曲)
「つぱめ」(アルメニア民謡、ドルハニャン編曲とマニエヴィチ編曲がある。)
「プーリバ(じゃがいも)」(ペラルーシ民謡・民族舞踊曲)

各共和国を代表する歌たちで、日本でも馴染み深い。
「百万本のバラ」(ライモンド・パウルス曲)

バウルスはラトビア共和国の文化大臣だった作曲家で、大統領候納にもなった人。ロシアの歌手、アラ・プガチョーワがヴォズネセンスキーのロシア語詞で歌って、全世界のポピュラー曲となった。なお、この曲の主人公のモデルはグルジアの放浪画家、ニコ・ピロスマニである。ラトビア語の原詞は、ロシア語の歌詞とは意昧が違うようであるが、まさにソピエトならではの歌といえよう。愛唱歌は争い事からではなく、友情の中から生まれる

音楽交流を友好・平和の力に
 世界の全ての国や民族が、それぞれの音楽・文化の創造と発展を競いあい、交流を深めるならば、人類全体が固い絆で緒ばれて、ひとつの輪(=和)となるだろう。その夢を持ち続けて、その実現のために努力をしたいと、遥かユーゴの大地と空に思いを馳せるこの頃である。
 
           (なかやまひでお、合唱団白樺団長・指揮者)