UpDate 2000.04.07
NHKテレビ 「ロシア語会話」 
ロシア民謡-秘宝の玉手箱
ロシア民謡は今 1999.4〜5月号
中山英雄
編集局から私に与えられたテーマは「ロシア民謡」である。どのようなタイトルで、どのような切り口で対象に迫る文章を書いたらよいのか−それは私に一任されている。そこで考えるのだが、この「ロシア民謡」という、大きなマンモスのような怪物を、ナイフとフォークでまるごと食べてしまうことは不可能だ。その料理法について思案しなくてはなるまい。
「ロシア民謡は人類の宝」_これは作曲家、音楽評論家の只野通泰氏が、最近、合唱団白樺で講演されたときの言葉である。私にももちろん、異論はない。
私のようにロシア民謡を精神的な糧として生活し、育ってきた者にとって、その要素が取り除かれてしまったら、恐らく身も心も空洞になるだろう。切実にそう思う。
   
 
●ロシア民謡と日本人
 日本人がロシア民謡を知り、広く歌い始めたのは第2次世界大戦後のことであるが、戦前にも少ないながら、その接点と交流はあった。
 古くは江戸後期1800年代前半の、大黒屋光太夫がロシアから持ち帰ったとされる「ソフィアの子守歌」がある。これは有名な民謡「コサックの子守歌」の元歌とされている。
 今世紀では、まず、1931年にセルゲイ・ジャーロフ指揮のドン・コサック合唱団が、渡米の途中、来日してラジオ放送に出演した。(この合唱団は戦後、56年にも来日。)ついで1940年にはバス歌手フョードル・シャリアピンが来日して、「ヴォルガの船曳き歌」などを歌い聴衆を魅了した。
 戦前、日本人自身によるロシア民謡の演奏や紹介では次のようなものがある。
 新劇人たちの間では、ゴーリキーの戯曲「どん底」の幕切れに歌われる「どん底の歌」(原題「陽は昇り、また沈み」)が流行したし、プロレタリア音楽家同盟(略称PM)の活動家たちは、ロシアやソビエトの労働歌や革命歌を好んで歌っていた、もっとも、これには大きな政治的、杜会的制約があったのであるが…。また日本の合唱音楽の開拓者の一人であり、関東合唱連盟の名誉会長であった津川主一氏(故人)もロシア民謡の訳詞や編曲で名を残している。その中には「仕事の歌」「行商人」「コサックの子守歌」やワルラーモフ作曲の「赤いサラファン」等が含まれている。
 
●映画「シベリア物語」とロシア民謡「バイカル湖のほとり」
 敗戦後3年目、1948年に封切られたソ連の音楽映画「シベリア物語」は大センセーションをまき起こした。まだ当時は珍しかったカラー映像の、美しいシベリアの大自然とともに、すぱらしいロシア民謡、ロシア音楽の数々は人びとを虜にした、とくに「バイカル湖のほとり」は胸を強くうつものがあり、これが当時のロシア民謡ブームの火付け役になったことは疑いない。
 同年、関鑑子主宰による中央合唱団が誕生し、「日本のうたごえ運動」が開始されたのである。昨年はちょうど、その50周年であった。
 なお、同じ年に日本合唱連盟も発足している。
 49年にはソビエトから帰国した人びとが、歌と踊りのアンサンブル「帰還者楽団」(後の音楽舞踊団「カチューシャ」)を結成し、活動を始めた。「トロイカ」「ともしび」「一週間」などの訳詞が有名だろう。
 50年、ロシア民謡、ソビエト歌曲を専門的に研究、紹介、普及することを目的とした合唱団白樺が誕生。もっとも当初は、当時の日ソ親善協会(後の日ソ楓会、現在の日本ユーラシア協会)の中にあった「ロシア語友の会」の合唱部門「ロシア語合唱団」であり、音楽よりも語学が主体のうたう会的なものであった。「白棒」は来年が50周年である。筆者の入団は1953年5月であった。
●ソ連崩壊以後
 「白樺はまだロシア民謡を歌っているんですか」という質問を受けたことがある。私は「まだ」ではなく「むしろこれから」と思っている。これから私たちの運動はますます大切に、ますます面白くなってくるだろう!
           (なかやまひでお、合唱団白樺団長・指揮者)