エッセイ (北川 剛「ロシヤ民謡我が生涯」より抜粋)
合唱のすすめ
音楽を学びたいという人の道程としてはいろいろあるが、一つの道としては合唱団に入り、
歌を通じて音楽の喜び、悲しみを体験し、その他の論理的、技術的勉強と相まってあなたの音楽
性をさらに高度にされんことをおすすめする。
そしてそれは単に、あなた個人だけでなく、周囲の友人あるいは家庭で、仕事の合間に、
食事の後にすばらしい重唱、合唱が流れるようになったとき、日本人全体の生活の高い文化水準が
保てうるだろうし、そうした時代が来ることを想像するだけで、わたしは現在の仕事の生きがいを
感じ、身ぶるいするほどの希望と勇気が沸いてくるのを禁じえないのである。
「昭和40年代の故人の文章」より
ロシアの大地
ロシア−−それは雄大なユーラシア平原である。広さからいえばアメリカ合衆国なら三つ、
イギリス諸島なら45、フランスなら40ぐらいに相当するといわれる。このユーラシア平原は、
北氷洋全沿岸にひろがる凍土(ツンドラ)、それにつながる森林(タイガ)、さらに黒色および
褐色土帯からなる草原(ステップ)、そしてアラル海・カスピ海の沿岸からモンゴールにつなら
る砂漠(プスティニャ)の四地帯からなっている。いちばん長い海岸線といえば、北氷洋海岸だが、
一年の半分以上は氷に閉ざされているし、南の黒海は入り口がトルコ領であるために充分な役割を
果たさず、東はシホテアリン山脈、西はカルパート(カルパチア)山脈やカフカス山脈などのけわ
しい山並みがそびえ、これら大自然の壁によってユーラシアは完全に封鎖されている。
この封鎖された大陸の中は、中央を縦断する低いウラル山脈をのぞく大部分は、ゆるやかな
起伏をえがいてひろがる平原である。汽車でシベリヤを横断するときに、ウラル山脈はいつの間にか
入り、いつの間にか抜けていくような低いもので、日本でいえば高原といった感じがする。
それに引きかえ、モスクワからアルメニアにむかってとぶ飛行機から見るカフカス山脈は雄大で、
夏でも雪に閉ざされている。
そうした中で、灌漑作用のほかに商業路として、また移住路として大きな役割を果たしてきた
のは河川である。ロシアの河は、日本のそれのように一条の河がその主流をなしているのではなく、
網の目のように幾条にもわかれて流れ、あるところには湖をつくり、またたくさんの支流をもっている。
これは地形や地質にさからわず、蛇のようにまがりくねって流れているからで、冬は凍ってトロイカ
(三頭立ての馬橇)の道路となり、雪解けの洪水は灌漑作用を行い、またたいへん便利な航路を提供して
くれた。アムール、エニセイ、オビ、ヴォルガ、ドン、ドニエプルなどの大河には大きな汽船が航行し、
船着場は港のようにクレーンがそびえている。したがってこれらの河川の流域には農業が栄え、都市が
発展し、政治や文化の歴史は河川とともに築かれてきたといえよう。ロシア人がヴォルガを母なる河と呼ん
で慕い尊敬したり、「静かなるドン」「やさしきドニエプル」「父なるアムール」という愛称がうまれた
のも、こうした理由からであろう。
「ロシア民謡の歴史」より
我が生い立ちと音楽活動
< 幼・少年時代 >
大正10年(1921年)6月24日に私は島根県で誕生した。
母は午前中田圃にでて田植えをやって、午後に生まれたそうだが、体重が一貫二百匁と大きく、
名前を「剛(ごう)」とつけられたのもそのせいらしい。
いくつ頃からか知らないが、歌を歌うのが好きな子供になり、みんなから「歌え、歌え」といわれて、
小学校に入る前から学校の学芸会で歌うようにいわれ、姉の美枝子に手を引かれてステージに上がり
「金魚は赤く美しく…」などの歌をうたってたいへんな拍手を受けた。
斐井小学校に入ってからハーモニカを吹き、学芸会などで大活躍もしたし、その頃三刀屋中学校で
毎年開かれていた大原郡・仁多郡・飯石郡の三郡合同の文化祭には斐井小学校の代表として独唱で参加した。
この中学校に入ってからは将来独唱者になりたいという希望が次第に強くなってきた。ところがその希望には
難しい条件があった。
父・福正が松江師範学校に在学中、歌が好きで素人ながら独唱会を開いて人気を集めていたという
ことで、卒業後東京の上野音楽学校(現在の芸大)に入って音楽家への道を歩みたかったようだ。
ところが祖父が猛烈に反対したので教師になり、小学校長も長くやったが、若い日の夢が果たされなかった
思いがあったらしい。
長男・清は早稲田大学の文科系を卒業してから有名な築地小劇場で働き、後に振興キネマ、東宝と
映画界を歩む。姉・美枝子は東洋音楽学校(現在の東京音大)に入学、続いて大阪音楽学校を卒業して
新宿の「ムーランルージュ」、大阪の「宝塚ショー」で歌と演劇をやった。次男・卓は京都の同志社大学に
合格したのにそこに進まず、映画の撮影所に入ってカメラマンの道に入った。「子供達みんなが勝手な仕事に
つき、私と同じような教師の道を求める子供は誰もいないから、お前こそ師範学校に入ってくれれば…。
」と言うのが父の要望であった。私は師範は嫌いで、松江市より音楽が盛んであった大阪方面での音楽学校を
望んだ。そこで師範学校の受験は松江よりも姉の住んでいる宝塚の近くにある池田師範学校へ受験したいと
いって、父の許可を得た。池田の受験は出きるだけ駄目な答案をだして不合格になろうと思ったが、それは実行
できなかった。合格の通達電報がくる予定日に田舎の家にそれが着かなかったもので、駄目だろうという予測で
次の志望であった音楽学校受験を父から許された。その翌日、池田師範合格の電報が届けられたのだ。だが、
父との約束も取りつけてあるので音楽学校も合格し、その方へ入学する結果になったのである。大阪の味原町に
あった大阪音楽学校(現在の大阪音大)に入り宝塚から通学し始められたのは、この電報遅配のせいであった
ともいえるだろう。
(続きはお楽しみに…)
・・・(まだまだたくさんあります)
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